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田中角栄「怒涛の戦後史」(22)元防首相・橋本龍太郎(中)

「二世」議員の選挙は、2、3回目が一番危ういとされている。初陣は“親の七光り”や、もの珍しさなどがあってご祝儀票で当選できる。だが、2、3回目は、選挙民が期待に応えた仕事をしているかを冷静に判断して票を入れるため、厳しい選挙になるケースが多いのである。橋本龍太郎の場合も、まさにそうであった。

 橋本は2回目の選挙で、1回目と比べて大幅に票を減らしており、昭和44(1969)年12月の3回目の選挙は、まったく油断のできぬ状況となっていた。

 加えて、選挙区の〈岡山2区〉(旧中w選挙区制下)に、なかなか帰れぬハンデがあった。時に、橋本は国会では社会労働委員会と文教委員会の二つに所属し、党では文教部会の副部長のポストにあった。折から、それらのポストでは、ともに野党との対決法案である健康保険法と大学立法を抱え、とても地元へ帰る時間はなかったのだ。

 いよいよ選挙戦に突入すると、さすがに橋本は焦った。頼ったのが、時の佐藤栄作首相と田中角栄幹事長であった。応援依頼をしたが、佐藤首相のスケジュールは投票日の前日までいっぱいで、田中のもとに足を運ぶと、こちらも「君、分かるだろう。幹事長は全国を相手にしている。とても、君のところへは行っておれん」ということだった。

 向こう気の強い橋本は、「それなら結構です」と席を蹴るようにして、東京・平河町にあった自民党本部の幹事長室を出たのであった。それから日たたずして、心身ともに落ち込んでいた橋本はどうにか時間をやりくりし、新幹線に飛び乗って選挙区の岡山に帰った。

 ところが、である。選挙区に戻って間もなく、橋本は地元で多くの票を握るある有力者のもとに、田中から一通の速達便が届いていたのを知るのである。

 田中が自ら筆を取ったその手紙は、なんと巻紙で3メートル余りの長さがあった。それには、次のように書かれていた。

「私の調査によると、現時点で橋本龍太郎は当落線上から上がっていない。橋本は国会でキリキリ舞いをしていたことで、なかなか地元に帰れなかった。党としては、党務に全力投球してきた人間を落選させるわけにはいかない。私としては、なんとしても橋本を当選させたい。あなたの会社の事業所が橋本の選挙区内にあるが、なんとか協力をお願いしたい」(要旨)

 橋本は、口では冷たかったが、陰でこうまでしてくれる田中を思い、涙でその手紙を読んだ。

 加えて、何事にも誠心誠意を尽くし、全力投球で臨む田中は、もう一つさらに橋本の胸を熱くさせるのだった。当時の佐藤派担当記者の、次のような証言が残っている。

「田中は同じ趣旨の手紙を〈岡山2区〉に多くの従業員がいる事業所を持つ、東京本社の社長宛にも出していた。『本来は自分が行くべきだが、まったく時間が取れないことから、竹下登君(当時の国対副委員長)を応援に行かせるので、よろしくのご協力をたまわりたい』と。何事でもそうだが、田中の“詰め”の厳しさが感じられた。

 その後、竹下を岡山へ行かせるとき、田中はこう竹下に言った。『君は、街頭演説などはやらんでいい。ここに、ワシが直接手紙を書いた会社の事業所のリストがある。君はこのリストの事業所を全部回って、本社の社長から実際に指示が下りてきているかチェックしてくれ。下りていればよし、いなければ本社の社長のところには、田中からこういう趣旨の手紙がいっているから、よろしくと言ってきてくれ』と。

 竹下はそれを忠実に実行し、結果、橋本はトップ当選を果たすことができた。橋本はこれを機に、田中の“一の子分”を自認するようになったのです」

★環境庁設置への辣腕

 こうした中で、橋本の一貫した厚生行政への情熱は、さらに燃え上がったようであった。

 昭和45年1月、厚生政務次官ポストに就いた際には、翌年の発足を目指した環境庁設置問題が浮上した。もともと、役所間の“縄張り意識”は凄まじく、案の定、厚生省内では環境庁設置に反対論が渦巻いた。当時の厚生省担当記者の話が残っている。時に、橋本は33歳の若さであった。

「橋本は役人の反対論を粘り強く説得し、一方で局長クラス相手でも『それは違うのではないか』と、ピシリ得意の“筋論”で攻め立てもしていた。結果、厚生省の事務機構のうち公害部と国立公園部を移管、合わせて人材の供給もして環境庁設置を実現させた。のちに厚生省の幹部は言っていた。『橋本さんでなければ、環境庁設置はとても無理だった』と」

 昭和47年7月、福田赳夫との「角福戦争」の末、田中内閣が発足した。佐藤派の大幹部だった田中に対し、佐藤首相は橋本に「次は福田がいいと思う。田中はその次だな」と、福田支持をほのめかしていた。しかし、橋本は「俺は角さんが好きなんだ」と、耳を貸さなかったという。

 一方で、スタートした田中内閣の厚生行政にも、橋本は早々と「それは筋が違うのではないでしょうか」とクレームをつけた。絶対権力者としてピークにあった当時の田中に、クレームをつける議員などは一人としていない中、田中は“大変な人物”に惚れられたということであった。
(本文中敬称略/この項つづく)

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【著者】=早大卒。永田町取材50年のベテラン政治評論家。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書に『愛蔵版 角栄一代』(セブン&アイ出版)、『高度経済成長に挑んだ男たち』(ビジネス社)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)など多数。

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