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プロレスでトップに立ち続けるというのは、なかなかどうして大変なことである。近年は“プロレス=エンタメスポーツ”との認識が広まったことで「団体や主催者がそうと決めれば誰でもトップになれるだろう」と、うがった見方をする向きもあるが、話はそんなに単純ではない。
抜擢されてトップに立つまではできたとしても、その座を維持するのは至難の業なのだ。むろん「ただ勝てばいい」のであれば話は早いし、そこに向けての努力の余地もある。
当然ながらトップ選手にとって強さは重要で、弱くて練習もしないような選手がフロントの推しでトップに立ったところで、ほかの選手が黙ってはいない。下手をすれば団体分裂まで引き起こしかねず、日本でインディー団体が乱立した経緯にも、そうしたことの影響が多く見られた。
ただし、プロの興行として試合をする以上、トップに立つ者はただ強さを誇示するだけでなく、ファンからの支持を得て集客&収益増に寄与することを求められる。
「よく大相撲の横綱審議会が、現役力士の品格についてどうのこうのと注文を付けますが、プロレスにおいてはそれがもっと露骨になる。ズバリ“今のチャンピオンで団体は儲かるのか、儲からないのか”と常に問われるわけです」(プロレスライター)
団体の思惑とファンの志向が合致したときには、オカダ・カズチカのようにいきなりトップに上り詰めて、新日本プロレスに新たなブームを巻き起こすまでにもなる。だが、それとは逆に完全な失敗となったのが、2002年にIWGPヘビー級王座を獲得した安田忠夫であった。
元大相撲小結の孝乃富士が廃業して新日に入門。本名の安田忠夫としてプロレスデビューを果たしたのは’93年のことだった。デビュー戦の相手をプロレスでの師匠格にあたる馳浩が直々に務めたことからも、当時のフロントからの期待がうかがえるが、その後は長きにわたり中堅どころでくすぶることになる。
大相撲時代からのギャンブル好きや借金苦、稽古嫌いなどの噂もあって、ファンの目もどこか冷たかった。
「ギャンブルに関しては噂通り。『競艇場でデカいのがいると思ったら安田だった』『パチンコ屋で通路にまで巨体がハミ出している安田を見た』なんて話をよく耳にしました。ただし、安田の名誉のために言えば、稽古はしていなかったわけじゃない。巨体のわりに締まった体をしていたのがその証拠で、ただの怠け者なら総合格闘技などできるはずもない」(同)
★下馬評を覆してまさかの大金星
しかし、’01年に総合格闘技デビューしてからも、安田がパッとしない状況は大きく変わらなかった。
「PRIDEデビュー戦では佐竹雅昭に勝利しましたが、これは安田の巨体に対処できない佐竹をコーナーに押し込んでの優勢勝ち。安田が勝ったというよりも、佐竹が負けたことの印象が強かった」(同)
次戦では佐竹戦での勝利が吹き飛ぶような、レネ・ローゼのハイキック一撃で壮絶KO負け。しかし、同年の大みそか『INOKI BOM−BA−YE2001』で奇跡が起きる。
猪木軍vsK−1軍の対抗戦形式となったこの大会だが、猪木軍の大将格とされていた藤田和之が練習中のアキレス腱断絶により欠場。代役を求められた小川直也も出場拒否したことで、安田にメインイベントの大役が回ってくる。
相手はK−1でトップ級のジェロム・レ・バンナ。どう考えても安田に勝機なしというのが大方の予想であったが、そんな下馬評を覆し、安田はギロチンチョークで大金星を挙げてみせたのだ。
あとから考えれば安田も1年近く総合の稽古を積んできており、総合初挑戦のバンナに勝ってもなんら不思議はないのだが、このときばかりは安田のぐうたらイメージが功を奏したと言うべきだろう。だが、この勝利があまりにも劇的だったがゆえに、周囲は見立てを誤ってしまう。
藤田の故障で空位となっていたIWGP王座は、猪木の「安田しかないだろう」という鶴の一声もあり、永田裕志との王者決定戦を経て安田に託されることになるのだが、これにファンはそっぽを向いてしまう。
「プロレスで何の実績もない安田がトップに立つなどは認められないということで、これがプロレス冬の時代に突入するきっかけとなった部分もあったでしょう」(同)
結局、王者としての安田は、天山広吉を相手に1度防衛しただけで、お役御免となる。総合でミルコ・クロコップに惨敗したとはいえ新日トップ戦線で実績のある永田に、その座を譲ることになったのだった。
安田忠夫
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PROFILE●1963年10月9日、東京都大田区出身。
身長195㎝、体重130㎏。得意技/ダブルアーム・スープレックス、突っ張り。
文・脇本深八(元スポーツ紙記者)