スポーツ
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スポーツ 2019年05月01日 17時30分
大谷翔平の復帰に暗雲「実戦感覚ナシの試運転状態だ」の声
ロサンゼルス・エンゼルスの大谷翔平(24)の復帰が近づいている。 エンゼルスの地元紙・オレンジカウンティレジスターは4月上旬に「アリゾナの球団施設で実戦的な打撃練習に入る」と伝えていた。チームを指揮するブラッド・オースマス監督も報道を否定することはなく、結局、5月上旬に復帰することとなったが、指揮官は「即、メジャー復帰はアブナイ」とも感じていたようだ。 米国人ライターがこう言う。 「大谷が右肘にメスを入れ、今季の投手出場が難しいことは既報通りです。オースマス監督も『二刀流の人気選手』の将来性に配慮し、無理をして復帰時期を早めるようなことはしないと公言してきました」 初期の打撃練習では傘下マイナーチームの投手数人をアリゾナに向かわせ、大谷の練習パートナーを務めたようだが、気になるのは、オースマス監督が大谷のことを話していたときの表情だ。二刀流ではないが、打者・大谷の復帰は喜ばしいはず。だが、オースマス監督は言葉を選ぶような物言いで、アリゾナでの練習内容についてはほとんど語らなかったそうだ。 「今年のエンゼルスはア・リーグ西地区で最下位争いを繰り広げるありさま。ご機嫌ななめなのは仕方ありません」(前出・米国人ライター) チームに大谷が復帰すれば、戦力的にもプラスになるだろう。その明るい話題にもご機嫌ななめだったのは、低迷するチーム事情だけが理由ではないようだ。 「大谷は今春のキャンプでは別メニューでしたし、実戦からも遠ざかっています。手術箇所は順調に回復しているようですが、マイナーのピッチャーが投げるボールを打っても、メジャーリーグの試合にすぐに出られるとは限りません。大谷が『真の戦力』となるのはもっと先の話だと考えているからでしょう」(前出・同) マイナーリーグとメジャーリーグでは、ピッチャーのレベルが違う。メジャーの試合に出場しても、しばらくは一線級のピッチャーのスピード、キレ、鋭角な変化球についていけないというのが、エンゼルス首脳陣の考え方だ。 また、こんな情報も聞かれた。 「大谷が受けたトミー・ジョン手術は体の別の箇所から肘に靱帯を移植するもの。本人は治ったと思い、全力で腕を動かしてみたら、また痛みが再発した、なんて選手も過去にはいました。大谷は一日も早く復帰したいと頑張っており、周囲がブレーキをかけている状態です」(特派記者) 大谷を試合に出場させれば、再発の危険性を伴う。かといって、慎重になりすぎると、実戦感覚を取り戻すのが遅れてしまう。その“さじ加減”が難しく、オースマス監督の悩みのタネはそのあたりにもあったようだ。 「大谷は打者としてよりも、ピッチャーとして一日も早く復帰したいと思っています。オースマス監督の目の届くところにいさせて、注意しないと、勝手にピッチング練習を始めてしまうかも」(前出・同) 復帰しても、当面は「様子を見ながら」の出場になりそうだ。もっとも、エンゼルスが低迷する状況から抜け出せなければ、「最下位争いから抜け出すために大谷に無理をさせた」なんてバッシングも地元紙から浴びせられるかもしれないが…。(スポーツライター・飯山満)
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スポーツ 2019年05月01日 06時00分
“西武一筋”の選手は少ない? 平成を代表する西武の選手 清原、カブレラ、そして…
球団別に平成時代を代表する選手を振り返る企画第3弾は、平成初期に黄金時代を迎え、無敵の強さを誇った西武ライオンズだ。 平成を代表する選手3人を紹介する。1、清原和博 1985年にドラフト1位で西武ライオンズに入団。1年目から31本塁打を放ち、黄金期の4番打者としてチームを支える。 平成に入ると、秋山幸二、オレステス・デストラーデとともに強力クリーンナップを形成し、1990年から94年までのパシフィック・リーグ5連覇に貢献。偉業を達成した大きな要因は、若き主砲・清原が4番にどっしりと座っていたことだと言われている。 1996年オフに巨人へFA移籍し、バッシングなどもあり成績が下降した清原。彼の全盛期は、やはり西武ライオンズ時代との声が多い。そしてライオンズにとっても、清原が4番を打っていた頃が、最盛期だったといえる。2、アレックス・カブレラ 2001年に西武ライオンズに入団すると、豪快なフルスイングを武器に暴れ回り、49本塁打を記録。そのすさまじい飛距離と打球の速さは、多くの投手を震え上がらせた。 そして2002年は初年度を上回るペースで本塁打を量産し、当時絶対的な記録とされていた王貞治のシーズン55本塁打に並ぶ。その後記録更新をさせまいと、相手投手が露骨に勝負を避けるようになり、その姿勢が議論を呼んだこともあった。 2007年まで在籍し、2004年の日本一にも貢献したカブレラ。平成中期を代表するスラッガーで、人気の高い選手だった。3、松井稼頭央 1996年にレギュラーに定着。俊足強肩のスイッチヒッターとして活躍、1997年には盗塁王を獲得している。 当初は本塁打を打つタイプではなかったが、1999年頃から長打力も兼ね備えるように。2002年には36本塁打を放ち、3割・30本・30盗塁のトリプルスリーを達成。走攻守全てにおいて優れた遊撃手に成長した。 西武在籍時代は7年連続3割に加え、ベストナインも7年続けて獲得。その全てに優れた能力から「プロ野球史上最強のショートストップ」と呼ぶ人もいるほどだ。 その後FA宣言でMLBに移籍し、楽天でプレーした後、2018年西武に復帰し引退した松井。現在は西武の二軍監督を務め、後進の育成に精を出している。 西武はFA移籍やトレード放出選手が多く、「一筋」で現役生活を終えた有力選手が少ないのが特徴。今後は「西武一筋」で終わる選手を増やすよう努めてもらいたいものである。文・櫻井哲夫
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スポーツ 2019年04月30日 22時30分
プロレスラー世界遺産 伝説のチャンピオンから未知なる強豪まで── 「カール・ゴッチ」“プロレスの神様”の作られた伝説
新日本プロレス旗揚げ時にアントニオ猪木と相まみえたとき、カール・ゴッチはすでに50歳手前であった。 以降、フロリダ州タンパのゴッチ道場において数多のレスラーを鍛え上げるとともに、自身も生涯トレーニングを欠かさなかったという。まさにレスリングの求道者であった。※ ※ ※ カール・ゴッチの初来日は1961年、日本プロレスの第3回ワールドリーグ戦。当時のリングネームはカール・クラウザーで、その緒戦はアメリカからの凱旋帰国となった吉村道明とのシングルマッチ、45分3本勝負であった。 ゴッチが日本初披露となるジャーマン・スープレックスで1本目を先取すると、吉村もこれまた日本初の回転エビ固めで2本目を奪い返し、その後は互いに一歩も引かないテクニック合戦の末、時間切れドローとなっている。 同シリーズに続いて開催された、ワールドリーグ選抜者による国際試合シリーズと合わせた約3カ月の間に、吉村とゴッチの対戦は都合13回も組まれていて、結果はゴッチの3勝1敗8分け1ノーゲーム(勝利は時間切れ判定勝ち2つを含む。ノーゲームは2本目のジャーマンで吉村が失神状態になったため、ゴッチの勝利とされながら、ゴッチがこれを拒否したもの)。 他の日本人選手との対戦では、力道山と1戦して1本ずつ取り合った後に両者リングアウトの引き分け。2番手格の豊登とは2勝1分け(不戦勝1を含む)。若手相手ではシングル28戦のうち20勝、反則負けが1回に時間切れ7回と、ほぼ完封の結果を残している。 また、シリーズ外国人エース格のミスターX(正体はビル・ミラー)には敗れているが、同じくシリーズの目玉とされたグレート・アントニオとは引き分けている。 力道山はゴッチと対戦した後に「強けりゃいいってもんじゃない」と吐き捨てたと言われ、以降は両者の対戦が組まれなかったことから“ゴッチは試合ぶりがつまらない”とする評価が一般的になっている。しかし、そうであれば、これから売り出そうという吉村のライバル役に抜擢したことの説明がつかない。 本当に面白味も華もないレスラーであったなら、アメリカマットでルー・テーズのNWA王座に9回挑戦したというのも不可解だ。 タッグも含めれば各テリトリーで世界王座に就いており、アメリカ進出が30代半ばと遅かったにもかかわらず、それだけの戦績を残したことを考えても、ゴッチがプロレス不適格者であったとは信じ難い。 「試合がつまらなくて観客ウケが悪かったわけではなく、対戦相手がゴッチを嫌がったというのが真相ではなかったか。ゴッチの試合映像を見ると、いったん相手の腕を取ればしつこくそれを離さないし、グラウンドでも簡単にブレークをせずに攻め続ける。ロープに振ったりもしないねちっこい戦いぶりで、対戦相手の疲労度は半端なものではないはず。しかも、極め技のジャーマンは当時としてはかなり危険なもので、力道山の言葉にしてもプロモーターの視点からではなく“疲れるし危ないしで、とても付き合いきれない”という、一選手としての嘆きのような気がしてならない」(プロレスライター)★プロレス的演出に寛容だった!? 「性格的に難あり」との評もあるが、そうであるならば日プロ、国際プロレス、新日本プロレスがゴッチに対してコーチ役を願って出るわけもなく、ゴッチ自身も己の技術を安易に授けたりはしなかっただろう。他にもルチャドールのエル・カネックや総合格闘家のジョシュ・バーネット、全日本プロレスの渕正信らのコーチ役も買って出ている。 「そのコーチングの内容自体がシビアであるために、厳しさばかりが喧伝されていますが、そうやって誰でもひょいひょいと受け入れるあたりは、むしろ人のいいおっちゃんのようにも見えます」(同) ゴッチの名前の由来からして、伝説のレスラーであるフランク・ゴッチにあやかったもので、またベルギー出身でありながら、当時のアメリカで敵役とされたドイツ人ギミックを受け入れていたあたりをみても、プロレス的演出に決して否定的ではなかったようだ。 国際プロ参戦時、モンスター・ロシモフの名前だった頃のアンドレ・ザ・ジャイアントにジャーマンを極めた伝説的一戦も、レフェリー不在でカウントが入らず、その後に逆転されるといういかにもプロレス的な結果に終わっている。“プロレスの神様”というのも、旗揚げ当初にゴッチしか目玉のなかった新日が、権威付けのために言い出しただけのこと。 「ゴッチにまつわるさまざまな伝説も、この頃に“作られた”ものが多い」(同) プロレス界での出世や名誉に対する欲が薄いので、ギャラさえ出れば選手ではなくコーチ役としての招聘も受け入れる。スターレスラーになることよりも技術の追求にばかり興味が向いていた、いわゆるオタク気質の人というのが、ゴッチの真の姿であったのかもしれない。カール・ゴッチ***************************************PROFILE●1924年8月3日〜2007年7月28日、ベルギー・アントワープ出身。身長184㎝、体重110㎏。得意技/ジャーマン・スープレックス。文・脇本深八(元スポーツ紙記者)
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スポーツ 2019年04月30日 17時30分
プロレス黄金時代と暗黒時代、そして真・黄金時代へ〜平成の新日本プロレス〜
今日で「平成」が終わり、5月1日から新元号「令和」の時代が始まる。 新日本プロレスが最初に東京ドーム大会を開催したのは、平成元年4月24日。『'89格闘衛星☆闘強導夢』という大会名で初進出している。この大会は平日開催だったにもかかわらず東京ドームという目新しさもあり、53,600人(主催者発表)の観衆を集めた。翌年は2月10日に開催。絶対にあり得ないと思われた全日本プロレスの主力選手が電撃参戦しドームを札止めに。前年11月に開催したUWFの動員数を超える63,900人(同)を動員、4月13日には全日本、アメリカWWF(WWE)の3団体による合同興行を東京ドームで開催している。91年は3月21日にアメリカのWCWと全面対抗戦を開催。メインイベントで藤波辰爾がリック・フレアーを破り、NWA世界ヘビー級王座を奪取した。92年には1月4日に開催。以後、今年まで27年連続で同日開催し、「1.4ドーム」が世間的にもブランド化された。 東京ドーム大会の最高記録は、98年4月4日に行われた『アントニオ猪木引退試合』の7万人。この記録はその後、K-1が抜いており、実数発表となった現在ではあり得ない数になるが、田中ケロリングアナ(当時は新日本)が東京ドーム関係者から聞いた話によると、回転扉にカウンターが付いており「猪木引退試合を超える動員数はその後ない」という。当時のK-1は外野に大きなセットを組んでおり、猪木の引退試合はセットも最小限に留め、立ち見も含めてギッシリと埋まっていた。現在は消防法も厳しくなっていることから、あそこまで入れるのは現実的に難しいと思われる。 しかし、今では毎年当たり前のように1.4東京ドーム大会を開催しているが、2000年代に入り、東京ドーム大会の動員数が下降。暗黒時代の始まりである。まず両国国技館が入らなくなり、後楽園ホールですら空席が目立つようになった。そんな時、心が折れることなく、全力プロモーションをし続けたのが“100年に一人の逸材”棚橋弘至だ。棚橋は全国各地を隈なくプロモーションをすることで、プロレスから格闘技に流れた“信頼”を少しずつ取り戻していった。 この棚橋の努力が実り、2012年にブシロード傘下になってから新日本は盛り返し、昨年は日本武道館3連戦、来年は東京ドーム2連戦を開催するまでに回復した。これは黄金時代にも成し遂げられなかったことで、木谷高明オーナーが「ドームでやるのをやめようと思ったけど、一度やめたらまたやる時がシンドイ」と開催継続を判断したのが大きかった。もちろんユークス体制のときにも何度も「来年はやるかわからない」「来年は1.4にこだわらないかも」という声は新日本サイドから明らかにされており、ドーム大会の開催がいつ終わってもおかしくなかったのは事実。真夏の最強戦士決定戦『G1クライマックス』の両国3連戦は縮小したが、東京ドーム側が毎年1月4日は新日本のために他を入れない配慮をし続けてきたこともあり、継続してきた。これは真・黄金時代到来を語る上で大きなポイントだ。1.4ドーム大会は来年1.5ドームという未知の領域にチャレンジする。メイ社長は「ファンの皆さんへの感謝」と話していたが、平成の新日本プロレスにとって象徴とも言える東京ドーム大会や東京ドームより大きい新国立競技場への進出は、令和に時代が変わってもチャレンジしていくことだろう。盤石な真・黄金時代を築くために。取材・文・写真 / どら増田
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スポーツ 2019年04月30日 11時30分
“メモリアル弾”は誰が打つ?「令和第1号ホームラン」“本命”の3人をピックアップ
「令和第1号」を放った選手のバットが、野球殿堂博物館に寄贈される――。各メディアによって広く報じられたこのトピックを、既にご存知の方も多いことだろう。 「令和」初日となる5月1日は、セ・パ6試合が予定されているプロ野球。記念すべき一発を放つのはいったい誰なのか。巨人対中日(東京ドーム)、DeNA対ヤクルト(横浜スタジアム)、阪神対広島(甲子園)の3試合がいずれもデーゲームのセ・リーグを対象に、注目選手を予想してみた。■平田良介(中日) 最初にチャンスがめぐってくる「先行チームの1番打者」の中で、長距離砲と言えば中日の平田。昨年は先頭打者本塁打を2本(リーグ1位タイ)放つなど、実績も申し分ない好打者だ。 また、該当の試合はセ3試合の中で唯一、屋内球場で行われるという点も忘れてはならない。ヤクルト、広島のトップバッターと違い、雨天順延の心配をしなくていいというのも好材料だ。■ウラディミール・バレンティン(ヤクルト) 滞りなく試合が行われた場合、本命となりそうなのがバレンティン。これまでに本塁打王を3度(セ現役1位)獲得し、2013年にはプロ野球新記録の60本塁打を記録した長距離砲だ。 ちなみに、バレンティンはこれまで5月最初の試合で、実に4回(6本)もアーチを記録している。昨年も1本放っているだけに、今年も十分に期待が持てるところだ。■中井大介(DeNA) 昨オフ巨人から戦力外通告を受け、その後DeNAが獲得した中井。ともすれば「なぜ中井の名が?」となりそうなところだが、“大穴”に推した理由はしっかりある。 巨人に9年間在籍した中井が、これまでに放った本塁打は11本。ただ、その中の2本は「平成生まれ選手1号」(2009年)と「巨人通算1万号」(2017年)。「二度あることは三度ある」とばかりに、3回目の祝砲を放つ可能性は少なくないだろう。 達成すれば、球史に名が残るのはほぼ確実の「令和第1号」。果たして、“メモリアル弾”はこの3名の中から飛び出すのか、それとも…文 / 柴田雅人
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スポーツ 2019年04月30日 06時00分
ブルーサンダー打線からイチロー、暗黒期、そして合併を経てバファローズへ… オリックスが歩んだ平成
昭和63年11月4日、オリエント・リースは、阪急から球団を正式に買収。翌年、同社はオリックスに社名変更し、新球団オリックス・ブレーブスが産声を上げた。当時、阪急ファンの誰もが突然の球団買収劇に耳を疑ったという。現在の関西私鉄勢力図を見ても、阪急が水面下で買収に向けた話し合いを続けていたことを信じられないのは無理もないだろう。 平成元年に生まれ変わったチームは山田久志、福本豊が阪急最終年に引退したため、残った戦力に加えて、「福岡に行きたくない」と大阪に留まる考えを明らかにしていた南海(ダイエー→ソフトバンク)から門田博光が加わり、ブーマー、石嶺和彦らとブルーサンダー打線で話題となったが、門田がブーマーとハイタッチした際に脱臼。翌年に退団、阪急時代から引き続き指揮を執っていた上田利治監督も辞任している。 平成3年、本拠地を西宮球場からグリーンスタジアム神戸に移転。監督も土井正三監督が就任し、阪急色が一気に消えた。この年オフ、ドラフトで田口壮(現・一軍野手総合兼打撃コーチ)やイチローを獲得。ブーマーが退団した。土井政権は優勝することなく、平成5年を以って退団。近鉄を優勝に導いた仰木彬監督が就任。仰木監督の就任はブルーウェーブ時代の幕開けの瞬間となった。 仰木監督はイチローの才能を見いだすと、売り出していく。そんな監督の期待にイチローも応えて、日本新記録(当時)の年間210安打を放ち、パ・リーグ新記録(当時)となる打率.385を記録する大活躍。一気にスターに上り詰めた。平成7年1月に阪神淡路大震災が発生。グリーンスタジアム神戸も一部が破損する被害に遭った。チームは「がんばろうKOBE」をスローガンに掲げて、被災者に勇気や希望を与えるべく、一丸となって闘い、阪急時代以来11年ぶりにリーグ優勝。日本シリーズにはヤクルトに敗れたが、翌年もリーグ連覇を果たし、巨人を相手に日本シリーズを制し、日本一に輝いている。 平成12年オフ、イチローがポスティングシステムを使って、メジャーリーグのシアトル・マリナーズへ移籍すると、翌年に仰木監督も退任。チームの話題性は下降していく。ここから暗黒時代が続き、田口もメジャーへ。石毛宏典、レオン・リー、伊原春樹と監督が次々に変わっていったが、弱小チームに転落。ファンも激減していった。そんな矢先、予期せぬ球団再編劇が起こる。 2004年はシーズン中に、オリックスと近鉄が球団統合に向けて話し合いを行っているという報道があり、球界は大騒動に。楽天が新規参入を果たし、ソフトバンクがダイエーを買収する中、近鉄と統合したオリックス球団はチーム名をオリックス・バファローズに決定。初代監督は近鉄、オリックスを優勝に導いた仰木監督が就任した。分配ドラフトで、主力選手や将来有望と判断した選手はオリックスに、残った選手は楽天に振り分けられたが、礒部公一は楽天を選び、オリックスが選んだ岩隈久志は一旦オリックス入団後、シーズン前に楽天へトレードされている。 統合1年目は仰木監督の体調が悪く、西武ドームの裏階段を登ることが出来なかったことから、仰木監督のためにバックスクリーンを開けてそこからタクシーで宿舎に戻っていた。4位でシーズンを終えると仰木監督は退任し、シニアアドバイザー(SA)に就任。監督には中村勝広GMが就任している。オフには巨人を自由契約になった清原和博を仰木SAがオファーし入団。また、メジャーに行っていた中村紀洋も獲得し大型補強を断行したが、仰木SAが12月に逝去。 翌年に始動した中村政権は1年で終わってしまう。また、神戸と大阪のダブルフランチャイズ制から、大阪へ拠点を移し、本拠地は京セラドーム大阪へ一本化されたことから、事務所機能も大半が京セラドームへ移ることになる。現在でも神戸はフランチャイズとして使用しているが、試合数は減少傾向にある。2017年から練習施設、ファーム球場、選手寮が大阪の舞洲に移転。大阪の球団としての色を強めた。 監督はテリー・コリンズを経て、近鉄の顔だった大石大二郎が2008年のシーズン途中から監督代行になると2位に躍進。統合後、初のドラフトで1位だった金子千尋(現・弌大)や、小松聖、近藤一樹ら二桁勝利のピッチャーに加えて、ローズ、カブレラ、ラロッカらビッグボーイズ打線が爆発した。シーズン最終戦には清原が引退。引退セレモニーには歌手の長渕剛が「とんぼ」を熱唱している。翌年、監督に大石監督代行が就任したが、これも1年で終わり、近鉄からの出資も終了。 2010年からは岡田彰布監督が就任。T-岡田を命名するなど、スター監督として話題を作り、岡田監督が構築した勝利の方程式は現在のチームにも受け継がれている。2011年には僅差でCSに進出出来ず。翌年シーズン終盤に岡田監督は休養(事実上の解任)を言い渡され、森脇浩司監督代行へ。翌年から森脇体制がスタート。2014年にはソフトバンクと熾烈な優勝争いを演じ、あと一歩のところで涙を飲んだ。この年から球団は「さらに、ひとつになろう。」をスローガンに公式ダンス&ヴォーカルグループBsGirlsをデビューさせたり、ファンクラブやハード面の強化に着手。2014年はチームが強かったこともあり、成功を収めた。 だが、大型補強をして臨んだ2015年シーズンは怪我人が続出。シーズン序盤に複数年契約を結んでいた森脇監督が休養すると、福良淳一ヘッドコーチが監督代行に。2016年には福良監督、そして球団復帰を果たした田口壮二軍監督の新体制となり、ブルーウェーブ黄金期を支えたメンバーがコーチ陣に入閣している。福良監督は球団初の生え抜き監督だったが、怪我人や外国人選手の不調などが重なり、優勝争いに絡めないまま2018年シーズンをもって退任。球団には育成統括GMとして残留し、日本ハム時代の人脈を駆使して、トレーナーなどを招聘している。監督は西村徳文監督が就任。金子、西勇輝の先発2本柱と中島宏之が退団し、小谷野栄一も引退。チームは若返りを図り、吉田正尚、山岡泰輔、山本由伸の猛牛三銃士が中心となり、新たなチームとしてアグレッシブなプレーを見せている。 球団統合後は、分配ドラフトに漏れた選手でスタートした楽天が先に優勝しているだけに、早く優勝したいところ。ファンサービスなどハード面は12球団トップクラスなだけに、ソフト面が強化されれば最強の球団になる要素は十分に秘めているだけに、令和では宮内義彦オーナーがお元気なうちに、再び黄金時代を築いてもらいたい。※文中敬称略文・写真 / どら増田
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スポーツ 2019年04月29日 17時40分
3人合わせてV89 平成の大相撲を代表する3大横綱
旭富士から稀勢の里まで、10名の横綱が誕生した平成の大相撲。今回はその中でも、20回以上の優勝を記録した3名の大横綱の活躍を振り返っていこう。■貴乃花(優勝回数22回/歴代6位) 父に初代貴ノ花(元大関)、兄に3代目若乃花(元横綱)、伯父に初代若乃花(元横綱)を持つ貴乃花。1989年11月場所で新十両に昇進した“角界のサラブレッド”は、その系譜に導かれるように出世。1994年11月場所で全勝優勝し、新横綱となった。 そこから2003年1月場所の引退まで続いた横綱時代は、合計15回(横綱昇進前は7回)の優勝をマーク。引退後はしばしば世間を騒がせることもあったが、土俵の上では間違いなく平成の大横綱の1人だったといって全く差し支えはないだろう。■朝青龍(優勝回数25回/歴代4位) 2003年1月場所で2場所連続優勝を達成し、21世紀初、そしてモンゴル出身力士初の横綱となった朝青龍。初土俵から所要25場所での昇進は、年6場所制以降では最速の記録でもあった。 土俵上でガッツポーズを見せたり、帰国中にサッカーに興じ(2007年)たりといった“やんちゃ”な振る舞いが、たびたび問題視されていた朝青龍。2010年2月に現役引退を強いられたのも、一般人を暴行した不祥事が原因だった。しかし、史上唯一の年6場所完全制覇を成し遂げた圧倒的な相撲が、いまだにファンの郷愁を誘っているのもまた事実だ。■白鵬(優勝回数42回/歴代1位) この3人の中で唯一、今なお現役で綱を張り続けている白鵬。優勝42回、年間最多勝10回、通算1120勝といった数々の史上1位記録を保持し、歴代最強横綱との呼び声も根強い名横綱だ。 先の3月場所でも、全勝優勝を成し遂げるなどその実力は健在。平成中期から後期の角界をけん引した第一人者の相撲は、令和時代に入ってもしばらくは見ることができそうだ。 平成の時代に誕生し、それぞれ歴史に名を残したこの3横綱。間もなく到来する令和時代にも、彼らのような傑物が1人でも多く出てきてくれることを願いたい。文 / 柴田雅人
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スポーツ 2019年04月29日 17時30分
「大谷だけじゃない!」 平成を彩った日本ハムのプロ野球選手たち
平成を飾ったプロ野球選手を球団別に振り返る企画の第二弾は、北海道移転をきっかけに人気と実力を飛躍させた北海道日本ハムファイターズだ。1、田中幸雄 1985年のオフに日本ハムファイターズに入団した「K・K世代」のひとり。1988年から1991年、負担の大きいショートで全試合に出場し、下位に低迷していたチームをけん引した。 1992年は故障で棒に振ったものの、95年から99年まではコンスタントに100試合以上出場。そして95年には念願の打点王を獲得。「ビックバン打線」の中心として君臨した。 地道にヒットを積み重ね、2007年に通算2000本安打を達成。日本ハムの生え抜き選手としては初の快挙だった。黙々と日本ハムで22年間プレーする姿はチームメイトやファンから尊敬を集め、現在も「ミスター・ファイターズ」と呼ばれている。◆通算成績2238試合 打率.262(7673-2012) 287本塁打 1026打点2、SHINJO(新庄剛志) 北海道移転元年の2004年にニューヨーク・メッツから移籍。移籍直後、巨人ファンばかりと言われた北海道で繰り広げた「新庄劇場」は話題を呼び、北海道にファイターズを浸透させた大きな要因となった。 そんなSHINJOは2006年4月に突如引退を表明。するとチームは夏場から快進撃を続け、25年ぶりのリーグ優勝を達成。さらに日本シリーズも制し、球団史上初の日本一に。SHINJOは「最高の花道」を飾った。 平成のファイターズを語る上で、SHINJOの貢献抜きには語れないだろう。◆通算成績NPB1411試合 打率.254(5163-1309) 205本塁打 716打点MLB303試合 打率.245(876-215) 20本塁打 100打点3、大谷翔平 投手として165キロを投げ、打者として特大ホームランを放つという離れ業を成し遂げた大谷翔平。当初は誰もが反対し「プロ野球をなめるな」「二刀流など邪道だ」という声も根強かったが、まさしく実力で黙らせてみせた。 高校時代に160キロを投げた実力はプロでもずば抜けており、3年連続二桁勝利を達成。同時に打者としても活躍し、2016年には10勝、22本塁打という誰もがなし得なかった離れ業を達成した。 さらにクライマックスシリーズ第5戦では、DHで先発出場した後、9回にクローザーとして登板。165キロのストレートを投げ込み、チームの勝利に貢献した。大谷のような選手は、今後現れないだろうというみる人が多い。 現在はロサンゼルス・エンゼルスに移籍した大谷。わずか5年間の在籍だったが、そのインパクトとポテンシャルは球団史上ナンバーワンとの呼び声が高い。◆通算成績NPB85登板 42勝15敗0セーブ 防御率2.52403試合 打率.286(1035-296) 48本塁打 166打点 2004年に東京から北海道に移転し、人気球団となった北海道日本ハムファイターズ。中でもこの3人は、平成の日本ハムを語る上で欠かせない人物と言えるだろう。文・櫻井哲夫
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スポーツ 2019年04月29日 06時00分
平成を代表する巨人の選手は誰? 「野球ファン以外も知っている」あの3人をピックアップ
いよいよ平成が終わろうとしている。プロ野球界はFA制度によって大きく野球が様変わりし、メジャーリーグ移籍が当たり前となった。また、一時期逆指名ドラフトが導入され裏金問題を招くなど、さまざまな事案が発生した。 今回から複数回にわたり、球団別に「平成を代表する選手」を振り返ってみたい。まずは球界の盟主と言われた巨人だ。1、松井秀喜 平成の巨人で最も人気と実力を兼ね備えた選手といえば、松井秀喜だろう。高校通算60本塁打の実績を引っさげ1992年のドラフトで1位で入団すると、当時の長嶋茂雄監督から英才教育を受けた。 その才能は噂に違わぬもので、1年目から11本塁打を放ち、96年からは7年連続で30本塁打以上を達成。中心打者としてチームを引っ張り、2002年まで「巨人の顔」として活躍。本塁打王3回、首位打者1回、打点王3回と圧倒的な成績を残した。また、2年目以降故障なくほぼ全試合出場した「頑丈さ」も特筆すべき点だ。 川上哲治、長嶋茂雄、王貞治、原辰徳という「生え抜き4番打者」の系譜を受け継いだ松井。「平成の巨人の歴史」に彼は欠かせない存在と言える。◆通算成績NPB1268試合 打率.304(4572-1390) 332本塁打 889打点MLB1236試合 打率.282(4442-1253) 175本塁打 760打点2、高橋由伸 東京六大学野球で歴代1位となる23本塁打という記録を残し、逆指名で1997年オフ、巨人に入団。当時の長嶋茂雄監督から「21世紀を担う選手」として期待され、1年目から打率3割を放ち、ポテンシャルの高さを証明した。 2年目以降は松井秀喜とともに巨人の中心打者として活躍。さわやかなルックスで女性ファンから絶大な人気を誇った。2015年オフ、原辰徳氏の監督退任に伴い、読売サイドから監督就任のオファーを受けた。当初は現役続行を希望していたものの、故障がちだったこともあり、引退を決断し、監督に就任した。 広角に打つことができる打撃センスと長打力、そして強肩を活かした守備はまさにスターにふさわしいものだった。◆通算成績1819試合 打率.291(6028-1753) 321本塁打 986打点3、斎藤雅樹 1982年オフに巨人にドラフト1位で入団。1985年に12勝を挙げたが、その後はなかなか活躍することができず。「ノミの心臓」などと揶揄され、一時は野手転向もささやかれた。 ところが平成元年である1989年、中日から移籍した捕手・中尾孝義の影響もあり、別人のように様変わり。11試合連続完投勝利の日本記録を達成するなどし、20勝を記録。さらに翌年にも20勝を達成し、名実ともに巨人のエースとなる。 1990年代は二桁勝利7回を記録。最多勝5回、沢村賞3回など、輝かしい成績を残した。中でも勝率の高さは特筆もので、「斎藤が投げる日は相手のファンが負けを計算する」ほど。「ノミの心臓」と呼ばれた斎藤は「平成の大エース」と呼ばれ、絶大な信頼感を得るようになった。平成期に活躍した巨人の投手の中ではナンバーワンだと評価する人が多い。◆通算成績426登板 180勝96敗11セーブ 防御率2.77 昭和の時代と比較すると、テレビ地上波中継もなくなり、優勝回数も激減するなど苦境の時代を迎えた巨人。しかし素晴らしい選手は数多く存在していたのである。文・櫻井哲夫
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スポーツ 2019年04月28日 17時50分
大横綱・白鵬の日本帰化に待ったをかける“八つの角”
一昨年の九州場所での「万歳三唱」に続いて平成最後の場所には「三本締め」と問題を起こす横綱・白鵬(34)の日本帰化に“八つの角”(八角理事長)が「待った」をかけている。 幕内優勝42回、幕内通算1026勝(いずれも歴代1位)の白鵬が、ついに日本帰化に向けて動き出した。このほど、モンゴル政府に国籍離脱の申請をしていることが判明したのだ。「遅かれ早かれ、こうなるのは分かっていました。白鵬は以前から『弟子を育て、大相撲界に貢献したい』と話していましたし、そうするにはどうしても日本国籍を取得する必要がありましたから。モンゴルの大英雄だった父が亡くなってちょうど1年。年齢も34歳になりましたし、踏ん切りをつけるにはいい潮時と考えたのでしょう」(担当記者) この抜群の貢献度で、国籍さえ取得すれば「一代年寄」になるのは間違いないが、問題は協会首脳、とりわけ八角理事長との深まる対立だ。 白鵬と協会首脳との関係は最悪と言っていい。先場所千秋楽も観客を扇動して三本締めを行い、大騒動になったばかり。 「強ければ何をやってもいい」という考えの白鵬は、日馬富士暴行事件で世間の批判を浴びていた一昨年の九州場所でもファンと一緒に万歳三唱。物議をかもしたにもかかわらず、またしても三本締め問題を起こしたのだ。 「場所後の理事会に白鵬を呼び出し、事情聴取をした際、八角理事長はものすごい剣幕で叱り飛ばしました。白鵬は『場を盛り上げようと思ってしただけです』と弁明しましたが、八角理事長の怒りは収まらず、憮然とした表情を見せていた。近々、この三本締め問題に対する処分が出ますが、果たして白鵬が納得するかどうか」(協会関係者) それでも日本帰化を決めた白鵬の狙いは何なのか。「白鵬は、銀座に部屋を構えるつもりです。表向きは『外国人に相撲文化を伝えるために』とされているが、銀座を拠点にあらゆるビジネスの可能性を模索している」(後援会関係者) 協会がこれ以上追い込むと、貴乃花のように相撲界に見切りをつける可能性もある。平成の2大横綱が相撲界を捨てたとなれば、協会に対する批判が殺到するだろう。日本相撲協会vs現役最強横綱のバトルが、新たな“土俵”へと移行しそうだ。
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